債務整理手続きの具体的な流れについてはHP内に記載していますが、今回はそもそも司法書士がどのようにして債務整理業務と関わるようになったのかをお話ししていこうと思います。
これを読めば、どうして司法書士が弁護士と並び債務整理問題の専門家として認知されているかが分かるはずです。
そもそも、債務整理が必要となったのは、昭和30年代~40年代ごろ、サラリーマン金融(サラ金)が巷に浸透してきたのが始まりです。
その当時は貸金業法も整備されておらず、貸出利息は70%を超え、100%に近いものも多かったそうです。
現在、消費者金融の利率は15%前後が多いことを考えると、当時の利率が途方もなく高いことが分かると思います。
当然、これほどの利率になると、「返済するために借金をする」という自転車操業のような形になり、多重債務状態に陥る債務者が激増します。
しかし、このサラ金が社会問題として認知されたのは昭和50年代の終わりになってからです。
サラ金業者による過度な取り立てにより被害を受ける債務者がマスコミにより報道され、ようやくこの問題が社会に認知されたのです。
問題が認知されたことにより、旧貸金業法が制定され、このサラ金問題は一旦沈静化しました。
この当時、問題にあたっていた専門家はその多くが弁護士でした。
また、一部の司法書士はこの時点で裁判所類作成等の業務を通じ、債務者問題に取り組んでいました。
つまり司法書士は弁護士と同様、非常に早い時点で多重債務問題に取り組んでいたのです。
次に多重債務問題が顕在化したのは、平成2~3年ごろ。
しかし、これはあくまで「顕在化」した時期であり、問題は先ほど書いた昭和60年代から進行を続けていたのです。
旧貸金業法制定時には、「みなし弁済」という制度が盛り込まれており、これは一定の条件を満たせば、利息制限法を超えた利息が認められるという制度です。
この制度を悪用することにより、貸金業者は利息制限法を超えた高金利の利息を得ていたのです。
しかし、先ほどの段落で説明したように、昭和50~60年代のサラ金問題は一度沈静化しました。
問題は沈静化したが、進行していた。一見矛盾するようですが、そうではありません。
その理由は「バブル景気」です。社会全体が好景気であったため、この債務者問題が顕在化しなかったのです。
そしてバブルが終焉した平成2~3年で再び多重債務問題として社会が認知したのです。
この時期、司法書士は個人での取り組みの枠を超え、組織的に対応を始めました。
青年司法書士会等の司法書士団体が弁護士団体とも協力しながら、各地で相談会・交流集会を企画していったのです。
このように、専門家団体としても司法書士は非常に早い段階からこの問題にあたっていたのです。
今回は、平成2~3年までの多重債務問題の発生から、司法書士が専門家団体としてこの問題に取り組むまでの流れをお話ししました。
次回は、この先、貸金業者が最も力を持っていた平成10年ごろのお話からしていこうと思います。